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後世に大きな遺恨を生んだ相馬隆胤公の討ち死に
創作活動全般に言えることであるが、歴史研究に於いて一番怖いのは何と言ってもモチベーションの低下である。どうすればモチベーションを下げないで執筆意欲を保つのか。私は常にこれを念頭に入れ、己の煩悩と戦っている。

今回取り上げる「童生渕の戦」は戦国時代の伊達、相馬に於ける一つの戦ではあるが、刃をまみえた両軍の兵の数が非常に少ない戦ゆえ、恐らく両軍の合戦の中では知名度が低く、郷土史愛好家でさえも、初耳に及ぶかたが多いと踏んでいる。但し、その合戦の規模とは裏腹に、幕末までけして和睦するに至らなかった両藩の相克にこの戦が及ぼした影響は極めて大きいとも捉えている。

この鎧兜をご覧頂たい。名君中の名君と言われた相馬第16代藩主、相馬義胤公の甲冑(相馬市歴史資料収蔵館展示写真より引用)である。義胤公は88歳という戦国武将としては稀なる長寿を全うして世を去ったが、その遺言により、遺骸は甲冑を身にまとい、薙刀を持ち、宿敵伊達藩のある方角である北に向けて埋葬された。何が公をそうさせたのか?伊達への遺恨が如何ほどのものであったのか?本日はこの「童生渕の戦」探訪によってこれを深く掘り下げたいと思うのである。

ところで、読者諸兄に於かれては何故これほどマイナーなものに傾注するのか?と疑問を持たれるかたもおありでないだろうか?往々にして「マイナーでマニアックな物事への傾注は真(芯)に入るほど世俗から見放される」と言われるが、私は己のブログが俗から離れてゆくのを百も承知でペンを執っている。逆に言えば俗から離れなければ、こうしたマニアックなものには深く没頭出来ないと感じている。

「童生渕の戦」の詳細を紹介する前に伊達と相馬の相克(せめぎあい)を図式化したものでご覧頂きたい。(資料は相馬市歴史資料収蔵館展示写真より引用)

50年間で三十数回の交戦とはなっているものの、或る資料によると実際には両藩の衝突は小競り合いを含めると毎年のように繰り返され、実に数百回?にも及ぶと推測される。本来は両家繁栄のために交わされるはずであった縁戚関係の契りが却って両家の確執の基となるのは誠にもって皮肉としか言いようがない。

ここに私は「過ぎたるは及ばざるが如し」(良好な人間関係を保つには近づきすぎず、離れすぎずという均衡を保つべし)の極みを感ずるのである。

航空写真で童生渕(赤)の位置を確認して頂きたい。往時の相馬の本拠地は小高(現、南相馬市小高区)であったが、中村城(黄色)は北側の大きな拠点であり、戦のあった童生渕とはまさに目と鼻の先である。

付近の民家に声をかけ回ること数軒、二名かたの人伝いに別なおかたを紹介され、三人目にしてようやく「童生渕」の場所を知っている人物(私とほぼ同年輩)と出会った。そしてそのかたのご厚意によって車に乗せて頂き、すぐそばまで連れていって頂いた。そのかたには改めてこの場を借りて厚く御礼申し上げる次第である。

相馬市図書館で借りた森鎮雄氏著「戦国相馬三代記」下巻の掲載写真によると、かつてこの水門の上に「童生渕古戦跡」という看板が立てられていたが、いつの間にか無くなってしまったようである。左のほうに相馬共同火力発電所の煙突が見えるが、これによって、私の撮影した写真と「戦国相馬三代記」下巻92ページの掲載写真がほぼ同じ位置から撮影されたものと確認するに至った。

拡大航空写真で童生渕の付近をご覧頂きたい。赤:童生渕、黄色:城ノ内
二番目に聞き込みを行ったかたが城ノ内にお住まいで、ここは元々城があった場所とのことであった。この辺りは十二所とも呼ばれたようで、伊達に奪回されたばかりの駒ヶ嶺城(4月29日に本ブログで紹介済み)に対抗する相馬の最北端の出城と見受けられる。

ここで討ち死にしたのは当時の相馬藩主、相馬義胤の弟である相馬隆胤である。隆胤は勇猛ながら軽率なところがあったという。1590年の初夏、彼は敵兵を深追いしたが、その後反撃を受けたためやむなく中村に引き返そうとしたものの、乗馬が下手だったゆえ、この堀を越えようとしたとき落馬し、二十名前後の家来とともに伊達側に討ち取られた(一説には弓矢で射られた。一説には槍で討たれた)という。享年28歳の若さであった。

逸話として、伊達側に殿様の首を取られないよう、従者の小姓が自ら隆胤の首を取り、追っ手を逃れようと付近の寺に入ろうと試み、それもかなわず林に駆け込んで自刃して果てた?とも伝えられる。また、或るブログによると現、相馬市黒木に隆胤の首塚が現存するとのことである。

彼はこの時中村城城主であった。即ち殿様が討たれたことになる。相馬直系の殿様が伊達に討たれたとなると、相馬側の遺恨は尋常でなかったと見られる。郷土史研究の大家である岩崎敏夫氏によると昭和の頃まで、相馬の人には「仙台人は油断がならない。気が許せない。」という意識が多かれ少なかれ心の中にあったという。私はこの戦に触れその真意がよくわかるような気がした。
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